脇指 越前守助廣
津田越前守助廣は、長曽弥虎徹、井上真改などと並び称される新刀を代表する名工の一人で、最上作に名を連ねており、殊に刃の明るさは新刀屈指といわれている。
二代助廣は、通称を甚之丞、寛永十四年(1637年)に摂州打出村(現芦屋市)で生まれ、初代助廣門に入り後に養子となる。明暦三年(1657年)に越前守を受領し、寛文七年(1667年)より大阪城代青山因幡守宗俊に召し抱えられ、天和二年(1682年)に四十六歳で没している。
この脇指は、銘振りからみて寛文の初め頃助広が二十代半ば頃の作刀と思われる。姿は、寛文頃の体配で、元幅に比して先幅が狭く、帽子も比較的詰まった形となる。ほとんど研ぎ減りもなく、製作当時の健全さを保っている。地鉄は、小板目よく詰み、地景よく入り、地沸よくつく。刃文は、鎬までかかる丁子刃を焼いて、小沸出来でよく締まった明るい刃縁を呈している。帽子も、一枚帽子のように深く焼き込んで小丸に返って非常に健全である。茎は、目釘穴一つの生ぶ茎で、助広の初期銘らしい力強い鏨で覇気のある銘を切っている。
二代助広は、濤爛乱れで有名であるが、この様な丁子刃は二代の父である初代そぼろ助広の得意とする刃文である事から、おそらくは寛文三年(1663年)に没した初代助広の遺風を偲んで注文を受けたのではないかと思われる。
二代助廣は、通称を甚之丞、寛永十四年(1637年)に摂州打出村(現芦屋市)で生まれ、初代助廣門に入り後に養子となる。明暦三年(1657年)に越前守を受領し、寛文七年(1667年)より大阪城代青山因幡守宗俊に召し抱えられ、天和二年(1682年)に四十六歳で没している。
この脇指は、銘振りからみて寛文の初め頃助広が二十代半ば頃の作刀と思われる。姿は、寛文頃の体配で、元幅に比して先幅が狭く、帽子も比較的詰まった形となる。ほとんど研ぎ減りもなく、製作当時の健全さを保っている。地鉄は、小板目よく詰み、地景よく入り、地沸よくつく。刃文は、鎬までかかる丁子刃を焼いて、小沸出来でよく締まった明るい刃縁を呈している。帽子も、一枚帽子のように深く焼き込んで小丸に返って非常に健全である。茎は、目釘穴一つの生ぶ茎で、助広の初期銘らしい力強い鏨で覇気のある銘を切っている。
二代助広は、濤爛乱れで有名であるが、この様な丁子刃は二代の父である初代そぼろ助広の得意とする刃文である事から、おそらくは寛文三年(1663年)に没した初代助広の遺風を偲んで注文を受けたのではないかと思われる。






