短刀 兼門
兼門は、関七流の善定に属し、代々の当主が兼門宗九郎を名乗り、刀工銘も兼門と切っている。また、万治二年(1659年)頃兼門が丹波大掾を受領した際に照門へと改銘しているが、照門銘は一代限りで次代からは元の兼門に戻っている。
関七流とは、関を代表する七つの流派(善定、三阿弥、良賢、得印、徳永、奈良、室屋)の総称である。当初は、七流全てが鍛冶座に属しており、その座を七人の当主による合議制(七頭制)によって運営していたが、やがて楽市楽座により座制度が消滅する。しかし、その後も、鍛冶仲間と称する自治組織の整備・運営・統率を行うなど、明治維新に至るまで関鍛冶の中心的存在であった。
善定派は、関七流の内でも主軸であり、代々の善定派当主は、惣領家と呼ばれ、関の鍛冶頭を務めた。流祖は、善定兼吉で一派名も兼吉の法号に由来している。その後、嫡流は兼重、兼房と続くが、若狭守氏房が尾張へと移住し、関との関係が薄れた為に、初代が善定兼吉の子である兼門宗九郎家が代表者となり惣領職を担った。
この短刀は、室町末期頃の兼門の作で、姿は平造り、僅かに先反りつき、僅かに磨り上がっているが、全体的にみると生ぶの姿を保っている。鍛えは、板目に杢目交じり、地沸つき、地景入る。刃文は、馬の歯状の兼房乱れに尖り刃交じり、砂流しかかる。茎の状態も良く、鑢目も残り、銘も判然としている。






