短刀 備前國長船住左衛門尉景光 元弘三年二月(拵付)
長船景光は、長光の子で名を左衛門尉といい、父の跡を受けて祖父光忠、父長光と続く長船正系の三代目を継いだ。景光の作刀年代は、鎌倉末期の嘉元から南北朝初期の建武までの三十年余りにわたり、時代の過渡期でもある為に作風に鎌倉末期と南北朝期の双方の特色が見られる。
本短刀は、明治から昭和初期にかけて活躍した政治家伊東巳代治伯爵が所蔵したもので、伯爵没後である昭和十一年の伊東巳代治伯爵家売立に出されて当時としては破格の一、七八六円で落札されている。ちなみに、源清麿がパトロンである窪田清音の為に打った事で有名な重美の刀もこの時に出品され一、五六〇円で落札されている。当時から非常に高値で取引されていた源清麿の刀を凌駕していた事に驚かされる。おそらく、数百振あったといわれる伯爵の蔵刀の内でも短刀においては十指に入る伯爵自慢の名短刀であったと推測される。売立の翌年である昭和十二年に重要美術品に指定されている。
鎌倉期においては、備前には数多くの名工が存在するが、古来短刀の名手となるとやはり景光が一番に挙げられる。この短刀は、長さが八寸で、研ぎ減りのない典型的な鎌倉末期の姿を呈している。景光の得意とする彫刻は、古雅で味わいのある倶梨伽羅竜と八幡大菩薩を表裏に表している。但し、この彫刻は通常の景光の彫刻とは趣が異なる為、おそらくは平安末期から鎌倉初期の刀工である豊後行平の短刀の彫刻を写したのではないかと推測される。景光の短刀といわれると、片落ち互の目を連ねた比較的単調な作風が一般的であるが、この短刀は小沸出来の直刃で、備前伝というよりもむしろ相州伝の新藤五国光や行光をみるような直刃の中に千変万化の働きをみせ、地鉄は小板目よく詰み、地景微塵に入り、地沸つき、鉄冴える。備前伝の映りは少なく、むしろ新藤五にみられるような美しい地沸を敷き詰めたような冴えた沸映りがあらわれている。地鉄の冴えと刃文の明るさは特筆できる。室町期以前の長船鍛冶の俗名入りは、注文打ちとして特に評価が高いが、鎌倉期となると景光の父である長光でも俗名入りは数振で、ほとんどが国の指定品であり、景光の場合は本短刀と御物、国宝に指定されている弟景政との合作刀の三振のみである。景光の短刀だけをみても国宝が一振、重文が一振である。間違いなくこの短刀は現存する景光の短刀の中では屈指の名短刀と断言できる。
この短刀に付帯する拵は合口拵で、鞘は幾度も重ね塗りをして研ぎ出したと思われる深みのある呂色塗りで、柄は出し鮫にして見事な親鮫を使い、浜野政隋の在銘で際端に銘が彫られており、赤銅に金地で茄子猿をあらわしている。小柄は、盛重の在銘で、山金地の魚々子地に空豆を高彫りにしている。伊東巳代治伯爵は、白鞘に鞘書するのを好まれ、独特の小さめの文字で詳細に書き込んでおり、この景光の白鞘も同様である。そして、伯爵は拵を誂えるのも好み、おそらくこの景光の拵も伯爵の好みで金具を集め、仕立てられたと思われる品の良い合口拵である。
この短刀を所蔵した伊東巳代治伯爵は、首相秘書官や内閣書記官長(現在の内閣官房長官)、農商務大臣などの要職を務め、明治二十三年に勅選により貴族院議員となった。この間に、伊藤博文の指揮の下、井上毅や金子堅太郎らと共に大日本帝国憲法の起草に参画している。明治三十二年からは、枢密顧問官として伊藤博文や山縣有朋などとの結びつきを背景に実質的に枢密院を牛耳り、昭和九年(1934年)に亡くなるまで政界において大きな影響力をもっていた。
ちなみに、伊東巳代治伯爵は明治二十四年(1891年)から在官のまま東京日日新聞(現毎日新聞)の第三代社長を務めており、その在任期間は明治三十七年に加藤高明(第二十四代内閣総理大臣)に売却するまでの十三年間にわたる。






