脇指 津田越前守助廣 寛文九年八月日

 津田助廣は、通称を甚之丞、寛永十四年(1637年)に生まれ、初代助廣門に入り後に養子となる。天和二年(1682年)年に四十六歳で没している。明暦三年(1657年)に越前守を受領し、寛文七年(1667年)より大阪城代青山因幡守宗俊に召し抱えられている。

 大坂城代は、大坂が元和五年(1619年)より幕府直轄地となった事に伴い設けられた官職で、初代城代内藤信正から明治元年(1868年)に牧野貞明の代で廃されるまで七十一代、六十七人が歴任している。その権限が大きい為、有力な譜代大名が任じられ、寺社奉行から大坂城代、京都所司代を経て老中と言う、江戸期の代表的な出世コースがあったほどである。

青山宗俊は、その十四代目に当り、寛文二年(1662年)から職を辞す延宝六年(1678年)までの十六年余り任期を勤めた。

 この刀が造られたのは、青山家に召し抱えられた二年後の寛文九年(1669年)助廣三十三歳の時である。まさにこれから円熟期を迎える頃であり、この刀の出来からも見ても、心身の充実が感じられる名品である。

 この脇指は、平肉がたっぷりとつき、地刃共に一つの欠点も見当たらない、所謂無疵・無欠点の脇指である。地景細かく入り、小板目詰み、地沸も美しくこの地鉄は、同作中でも傑出している。刃文は、得意の濤瀾刃を焼き、前述の地鉄の影響か沸のつぶがよく揃って厚くつき、明るく冴える。茎の状態も非常に健全である。以上の事から見ても、本作は同作中の脇指で傑作の一つに上げられる一振である。

余談ではあるが、この頃の大坂では、華やかな元禄時代の到来を告げるかのように道頓堀に芝居小屋が作られ始めた。寛文元年にはまず中座が、そして寛文九年には角座が作られた。中座は、道頓堀五座と言われる代表的な劇場の中でも最も格式が高く、長きにわたり上方歌舞伎の中心的存在であった。角座は、宝暦八年(1758年)に世界でいち早く回り舞台やセリと言った舞台技法を導入した事でも知られ、後の世界の舞台の潮流を変えたと言われる。

今日、歌舞伎のみならず、オペラや演劇でもこれらの技法は使われているが、これは後にここを見物にきたシーボルトによって、ヨーロッパに伝えられたと言われている。

DATA

長さ1尺5寸5分5厘

反り 3分1厘

元幅 1寸5厘

元重 2分3厘

先幅 7分4厘

先重 1分7厘

第二十五回重要刀剣指定

価格 600万円

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