刀 金象嵌銘 来国俊

 来国俊は、二字国俊の子、あるいは来国行の子と伝わっている。生年は、正和四年(1315年)七十五歳と年紀の切られた太刀があることから、仁治元年(1240年)の生まれであるとわかる。没年は不明であるが、元亨元年紀の太刀が現存するため、少なくとも八十一歳までは存命であったと思われる。

 古来より来国俊には、同派である二字国俊との同人説と別人説がある。同人説では、当時としてはかなりの長命であったが故の一人の刀工による作風の変遷と捉えられ、別人説では別人であるが故に作風の相違が見られるとされている。両者の作風の相違としては、二字国俊が来国行を思わせるような身幅たっぷりとして猪首切先の豪壮な姿に丁子の目立つ賑やかな乱れを焼くのに対して、来国俊は細身の優しい姿に直刃基調の刃を焼いている。

 来派は、国行を始祖とする一派で、鎌倉末期頃には粟田口派に変わるような形で、山城伝を代表する刀工群となった。古説では、来派の祖は国吉といわれているが、時代や作風で国行と直結するような国吉の作刀が見られない為、今日では国行を来派の事実上の祖とするのが通説である。また、来一門は、国行を始めとして、二字国俊、来国俊、来国光、来国次と一門の直系がいずれも最上作である。これは非常に稀な事で、他に同様の例がみられるのは同時期の長船正系(光忠、長光、景光、兼光)のみである。 

 本刀は、大磨上無銘であるが、茎に来国俊と金象嵌が施されており、江戸期には日向延岡藩主内藤家に伝来したものである。茎にある金象嵌は、花押はないが本阿弥光忠のものである。本阿弥家の中でも、光温(十一代)光常(十二代)光忠(十三代)は三代続けて本阿弥家を代表する鑑定家であり、特に光忠の金象嵌は在銘に匹敵し、江戸期には在銘と同じ扱いを受けていたといわれている。この刀の姿は、完全な山城伝の太刀姿で、所謂華表反りを呈し、身幅尋常であるが重ね厚く、しっかりと手持ちが重い。鍛えは、小板目よく詰み、処々来肌といわれる大肌があらわれ、来派独特の来映りと呼ばれる小沸がちな地沸状の映りがあらわれる。刃文は、僅かに湾れた中直刃で、処々足、葉よく入る。帽子は、綺麗に小丸に返って美しい。因みに、本刀に付帯する太刀鎺は金無垢である。

DATA
  • 長さ 2尺2寸7分5厘
  • 反り 6分5厘
  • 元幅 8分5厘
  • 元重 2分1厘
  • 先幅 5分
  • 先重 1分2厘
  • 特別保存刀剣鑑定書付
  • 価格 320万円
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