刀 東武英義作 元治二年二月日
藤枝英義は、通称を繁太郎或いは太郎作といい、文政六年(1823年)に玉鱗子英一の子として上野国那波郡川井村(現群馬県佐波郡玉村町)に生まれた。英義は、初銘を治廣といい、父英一から鍛刀技術を学び、その後細川正義の門人となり、独立後は父英一と師正義から一字ずつをもらい英義へと改名した。嘉永二年(1849年)に父英一が没した後は家督を継ぎ、嘉永六年に武蔵川越藩のお抱え鍛冶となった。以後、川越藩主松平直克の上野国前橋への転封に伴い前橋や江戸などで鍛刀し、明治九年(1876年)に五十四歳で没している。
この刀は、茎に切られた年紀から元治二年(1865年)英義四十三歳の時の作とわかる。姿は、反りが少なく、身幅の割に重ね厚く、江戸末期に流行した所謂勤王刀と呼ばれる力強い姿を呈している。鍛えは、小板目よく詰み、処々柾がかり、地沸つく。刃文は、直刃調の頭の揃った互の目で、小沸出来で小足よく入り、沸よく揃う。茎は、処々まだ光って、非常に状態が良い。この刀に付帯する鎺は、金着せの一重鎺で、川越鎺(或いは前橋鎺)と呼ばれる独特の鎺が付いている。「藤枝太郎」を添えず、通常入れる巴紋の刻印も入っていない銘文は珍しく、おそらくは藩の重臣以上の注文打ちではないかと推測され、英義の力量を如何なく発揮した典型作である。
英義を抱えていた武蔵川越藩松平家は、元々上野国前橋藩主であったが、利根川の激流による前橋城の浸食により居住に支障が出た為、明和四年(1767年)に居城を前橋から川越に移している。慶応三年(1867年)に川越から前橋へ帰城したが、その間の約百年間は前橋に陣屋が置かれ、川越藩の分領として治められていた。






